- キーワード:小泉セツ
- トレンド発生時刻:2026年03月25日 07:50
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NHK連続テレビ小説「ばけばけ」が最終週に突入し、最終回の2026年3月27日を目前に控える中、ヒロイン「松野トキ」のモデルとなった実在の人物「小泉セツ」がGoogle Trendsで急上昇キーワードとなっている。
ドラマでは髙石あかりが松野トキを、トミー・バストウがレフカダ・ヘブンを演じており、視聴者の間で「モデルとなった本物のセツはどんな人物だったのか」という関心が一気に高まった形だ。
JBpress・プレジデントオンライン・Yahoo!ニュースなど複数の大手メディアが、最終回に合わせて小泉セツの生涯に関する解説記事を集中的に配信したことも、検索需要をさらに押し上げている。
没落士族の娘として生まれた小泉セツ
小泉セツは慶応4年(1868年)2月4日、島根県松江市南田町に生まれた。
父の小泉湊は松江藩士、母のチエは松江藩家老職の塩見家の娘で、セツは二人の次女にあたる。
しかし、セツは実父母のもとで育つことはなかった。
生後わずか7日目に、松江市内中原町に住む稲垣金十郎・トミ夫妻の養女となったのだ。
稲垣家は小泉家の遠戚にあたり、子のいない夫妻との間には「小泉家に次に子どもが生まれたら稲垣家の養子とする」という約束がセツの誕生以前から交わされていた。
セツの生家・小泉家は禄高三百石の「上士」という由緒ある家柄だったのに対し、養家・稲垣家は禄高百石の「並士」であった。
そのため養父母はセツを「オジョ(お嬢)」と呼んで大切に育てたという。
小泉八雲との東京生活——住まいへのこだわり
ドラマ「ばけばけ」では、東京で暮らす夫婦の姿が描かれているが、史実における八雲とセツの東京生活も興味深い。
小泉八雲は1904年に豊多摩郡大久保村大字西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)の自宅で死去しており、東京での生活は約8年に及んだ。
八雲が東京に出た理由は、セツが東京暮らしに憧れていたことと、東京帝国大学からの年俸400円という高給であったとされている。
東京で最初に住んだのは牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)で、1896年8月にセツとともに上京して住まいを探した。
大学が用意した小石川の西洋館の官舎を八雲は気に入らず、「なるべく大学から遠い家」を求めて探し歩いた末、現在の成女学園の門前にあたる場所の一軒家に落ち着いた。
八雲がその家を気に入った理由の一つは、近くに「ふし寺」または「瘤寺」とも呼ばれる古刹・鎮護山圓融寺自證院があり、周囲にうっそうと木が茂り墓地も点在していたことだった。
年収1億9200万円を失っても動じなかったセツの器
八雲が東京帝国大学から受け取っていた年俸は、現在の人件費換算で約1億9200万円にのぼる。
後任の夏目漱石の年俸800円(同・約3200万円)の実に約6倍という破格の待遇だった。
しかし、ロシアとの緊張の高まりによる軍事費膨張の影響で文教予算が削減され、八雲は3月末日での解雇を事務的な文書一枚で通告される。
事前の説明も情のあるやり取りもなかったことに八雲は激怒し、交渉は不可能な状態に陥った。
しかし、このとき妻のセツは長男・一雄にこう語りかけている。
「パパ様は今度帝国大学の方をお止めなさることになりました。パパ様のことだから私達が食べられないで困るようなことはなさらないだろうけれど、何分普請をした後ではあり、今までよりは収入もずっと減るのですから、お前もそのつもりで我儘をいってはいけませんヨ」(『父「八雲」を憶う』)
不安な様子はなく、落ち着いて悠然と構えていたという。
作家活動が順調で、十分に暮らしていけるだけの原稿料や印税収入があったこと、そして幾度もの危機を乗り越えてきた経験からくる自信が、その冷静さの背景にあった。
怪談を生んだ10年以上の共同作業
セツが単なる「妻」にとどまらない存在であったことは、八雲の創作活動における役割からも明らかだ。
帝国大学の講師を辞めた後、執筆に専念するようになった八雲を支えたのがセツだった。
神田や浅草などの古書店をめぐって妖怪・怪談に関する古い文献を探し回り、その内容を八雲に語って聞かせる。
八雲はそれを物語に仕上げていく——この10年以上にわたる共同作業が、名作『怪談』をはじめとする数々の作品を生み出した。
セツは八雲にとって、生活を支える妻であると同時に、創作の根幹を担う知的パートナーだったのだ。
朝ドラ「ばけばけ」の最終回を前に、没落士族の娘から小泉八雲の妻となり、日本文学史に残る作品群の誕生を支えた小泉セツの生涯が、改めて多くの人の心を捉えている。
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